1. 気についてその2

気についてその2。
気についてその2

20年近い前のことですが、次兄の妻の一回忌で父が上京したので、私も埼玉の次兄宅に出向き
ました。
部屋に入ると、テーブルの上に直径約7、80cmくらいの鮨桶にうまそうなにぎり鮨が詰まっていました。
驚いて尋ねると、父の傍にいる30歳後半の女性が差し入れをしてくれたのでした。
理由を聴くと次のようないきさつでした。
何年か前、彼女は右の手のばね指の手術をしました。しかし術後のリハビリを怠ったせいで
中指から小指までの3本の指が動かなくなり、物を掴めなくなりました。同時に痛みも伴うように
なりました。
医者からは見放され鎮痛薬は余り効果はないとのことでした。

私は彼女の手を取って観察しました。
その指は乾燥してひび割れたような皮膚をしていました。見た目もいかにも痛そうです。
指を動かしてもらうと、中指、薬指と小指の3本の第2関節が癒着して曲げることが出来ず、それぞれの
中手指節関節が、30度くらいの角度しか曲げられませんでした。
確かにこれでは物を掴むには親指と人差指しか使用出来ないので大変な不便を伴うだろうと
想像できました。

父は彼女の痛む右手を取って、念を入れた気合をかけたのだそうです。

「お父さんがね、こうして私の手を掴み、右の手刀をかざし気合をかけたら、治ったのよ、痛みが
なくなったの。」と、彼女は嬉しそうに言いました。
「本当に痛みはとれたのですか」私は思わず彼女に尋ねました。
以前講習会で気功の人体実験台になった時、嫌な思いをさせられたことを思い出したからで、
決して父を疑ったり彼女の言葉に疑問を抱いたのではありません
しかし正直に言って、「気合」だけで痛みが本当に解消できたと言う事を信じるには戸惑いが
有りました
とは言っても、私の感情のいかんに関わらず、痛みに苦しんでいた本人が目の前で心実を
述べているのです。
そして鮨桶の中の鮨がその証なのでした。


出雲大社の禰宜であった父は宮司の知人から「真言」をを教えられました。
この「真言」は曽て、天皇家のための加持祈祷を行う文言でした。
明治維新で都が京都から東京に遷都し、天皇家は東京に移転したためと西洋医学を選択したために
「真言」は不要になったのでした。
しかし1000年以上も継続して来た「真言」の消滅を懸念した伝承人は死ぬ前に誰かにこれを伝えたいと切望したのでしょうか。
出雲大社の宮司と父はこれを託されたのでした。
出雲大社の宮司はこの「真言」を息子(現在の宮司)に教えようとしましたが、現代社会に
そのような迷信は必要ないと、一笑に付されたとのことでした。
その後宮司は逝去され、「真言」の継承者は父だけになりました。
何年か経って、治療の壁に苦しんでいた私は父の気功を思い出し、教えてほしいと電話しました。
電話口に立ったまま父の無言が暫く続いた後、
「儂はもう教える気力がなくなった。せめて10年前だったら良かった。」と言って電話は
切られました。
「10年前と言えば、父が次兄の家で近所の女性の手を治した頃だな。」と、
一人つぶやき、過ぎ去った時の速さに思いをはせながら、静かに受話器を置きました。
その後何年か経って、父の余命が半年と診断されたと姉からの電話を受けてから、最後に会って
おきたいと帰郷しました。
そしてその時、自己の加持祈祷の「祝詞言」を教えられました。
これは他人の加持祈祷は出来ませんが、自己の身体を健康に保つことが可能であり、一子相伝の
「祝詞言」であるとのことでした。

「これは本当に効き目が有るから努めなさい。」
これが「祝詞言」を託した私に対する父の言葉でした。

そして天皇家を千年以上加持祈祷し続けて来た「真言」は事実上ここに消滅しました。
この「祝詞言」が自身にとってどのような効果が有るのか未だ判然としませんが、ともかく現在
健康であることがあえて言うならばその効き目と、思っています。
何故なら治療家にとって最も大切な事は自分自身が健康であるべきだと思っています。そうでなければ、
決して他人の治療は出来ません。と、言うより治療をする気になりません。
脈診の微妙な違いを見極めるには忍耐が必要です健康でなければ気力が続きません。

父の逝去後、遺品の中に父が彫った仏像が二体有りました。
一体は長女が、一体は次兄が持ち帰りました。
ある日次兄から電話が有りました。

先日友人が訪れたので、2階で仕事をしていた次兄は階下に降りて来ました。
友人は挨拶をソコソコに、
「佐々木さんこの仏像譲ってくれないか」と、彼は床の間に据えていた観音菩薩像を指さして
尋ねたそうです。
兄は、これは父の遺品だから譲るわけにはいかないと断っても、彼はしつこく買いたいと望むの
でした。
「どうしてそんなにこれが欲しいのか」と兄は尋ねました。
友人は次のように語りました
3か月前から肩の痛みで病院に通っているが、中々治らないで苦しんでいる。今日居間に入ると床の間に
仏像が有るのに気づき、何気なく触れたところ、肩の痛みがスーと消えたと言うのでした。
「この話をどう思う。」と兄は私に問いかけました。
私は答えに戸惑いつつも、以下のような事が脳裏に去来しました。
50肩で悩んでいた人がある日突然痛みがなくなることが有るように、仏像に触れようとして手を
上げた瞬間が、正にその時だったのか。
信じる者は救われると、言いますが、薬物そのものの効能ではなく、投薬された安心感や医師への
信頼などの心理作用によって症状が改善する、偽薬(プラセボ効果とみなすこともできます。
あるいは霊験あらたかな神仏のことをよく耳にします。この近くでは巣鴨に有る高岩寺の地蔵様が
有名です。毎月4の付く日は多くの参拝者で混雑しています。もし全く効果がなければ誰も参詣しない
でしょう。
しかし信じるには何か実感出来るものが必要な気がしますが、これは私に信仰がないせいかも
しれません。
それはともかく、一つ言えることは私がそのような経験がないからといって、決して全て否定する
積りはありません。
この世界には、何か認識を超えた宇宙の神秘的な何か、名状し難い永遠なるものの存在が有るように
思えてしかたありません。
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